バンジュクさんのワークショップが教えてくれたこと

マリ人ダンサーが踊るのを、生で見るのは約二年半ぶりくらいでした。
素晴らしいダンサーというのは、そのからだの動きを見ていると、音が「見えて」きます。
バンジュクさんことクリバリーさんは、まさにそんなダンサーでした。

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(撮影:アフリカ屋・さわこさん)

バンジュクさんもマリ国立民族舞踊団出身ですが、舞踊団の伝統的スタイルの持つ素朴さとは一味違い、独特の華やかさを持ったダンスの踊り手、という印象を受けました。
コンテンポラリーの影響もあるように感じました。

そしてもっとも印象深かったのが、「踊るのが好きで好きでしょうがない」のが全身からあふれ出ていたところです。

これは私の個人的な印象ですが、誤解を恐れずに言えば、今回のワークショップは(いつも彼がどのようにすすめているのか知りませんが)、「ダンスのステップを教える」ものではありませんでした。
サールさんのワークショップ同様、本質的なことをつきつけられたワークショップだったと思います。

すべてのコマで違うリズムをやりましたから、たくさんのステップを披露してくれたのは事実です。
そしてもちろん、同じところを何度もくりかえしたり、解説を加えてくれたりもしました。
だから覚えのいい人はステップをたくさん覚えることができたでしょう。

しかし、私のように普段ダンスを練習していないものにとっては、とてもとても、ステップを覚える段階にまで到達することはできませんでした。
でも…、と考えます。

「舞踊を習う」というのは、=(イコール)ステップを覚えること、なのでしょうか?

それもひとつにはあるでしょう。
でもそれだけを目的にするのは、もったいない、という気がします。

右足を前に、左足を後ろに、くるっとまわって…と、同じ動きをしても、人によってまるで違ったものに見えるのは何故でしょうか。

からだを「動かすこと」と「動かさないこと」の間には、無限の可能性があります。時間的にも空間的にも。
そこのところはおそらく言語では説明不可能です。
だからこそ「舞踊」という芸術が成り立っている、とも言えるでしょう。

バンジュクさんの踊りが多くの人を魅了するのは、その「無限の可能性」を肉体を使ってみごとに視覚化しているからにほかなりません。
飛び散る汗さえも表現の一つであるかのような、「感情的な」肉体は、見るものを圧倒するというよりは、「躍らせる」ものでした。

踊れない私も、心だけは躍らせてもらいました。

バンジュクさんは「もっとエネルギーを出しなさい」と再三おっしゃっていました。
「ジェンベにエネルギーを出してもらおうと思わないこと。それは自分の中にあるのだから」と。
(言うまでもありませんが、「太鼓なんか要らない」という意味ではありません。)

太鼓に躍らせてもらうのではなく、自ら踊れ。

そんなバンジュクさんの踊りは、太鼓をも躍らせるものでした。

(文責:ジャバテ ミネコ)
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